ゆったりと7人分は布団の敷けそうな客室と、続きに同じ大きさの寝間。さらにもうひとつ小座敷。
 旅館の質と単純な面積は一概に結び付けられないけれど、たったふたりの客に対してこの広さはやはり贅沢だ。
「なんだろねェ」
 ここへ落ち着いてもう何度目か。銀さんはほとほと呆れかえった。
「ガキの頃からこんな宿ばっか泊まってっとおめー贅沢病で鼻が曲がるぞ。若ぇうちはゆーすほすてるでも泊まっとけっつーの」
「ゆーすほてるってどんなホテル?」
「ホテルじゃなくてほすてる!マジで?通じねぇの?」
 やっかみ半分の言いがかりは世代の壁でうやむやにされ、それでもまだまだほろ酔い加減の口は止まらない。銀さんは口笛でも吹くように冷やかした。
「いいないいな〜。の財布は地主の母ちゃんにつながってていいな〜」
「失礼ねっ!今日はが働いたお金で来てるもんっ!一銭も出してもらってないもん!」
「だからおめーはわかってないっつーんだよ。働かしてくれてんのは母ちゃんで、こんな宿とれんのも母ちゃんのご威光あってのことだろが」
 そうは言いながら銀さんだって機嫌は悪くない。ぶーっとふくれたのほっぺたをぶすぶす指でつっついて楽しそう。ひとっぷろ浴びてごちそうを食べて、酒も呼ばれて油断しきっている。


 ここはの(親の)馴染みの宿。常連客にこっそりと案内されたお得なプランを、聞きつけてが飛びついたのだ。
 昨今の不景気で旅館業も苦しく、しかしそこそこ格式のある宿だけに、なりふりかまわぬ価格破壊や広告戦略はできないとかで。


 季節は初冬。侘びしい山あいにたたずむ宿は音もなく降る雪に化粧されている。古くは戦国武将が戦の傷を癒したという由緒正しい源泉で、それをこの宿の主人は代々守ってきたそうだ。

 人の声とてどこからもしない。宿は周辺にここ一軒だけ。下駄を鳴らしてそぞろ歩く温泉地のにぎわいとは無縁だ。
 「離れ」でこそないが、ひとつひとつの客室は十分すぎる余裕をもって配置され、全体の部屋数もそう多くはない。サービスも客の顔を見て細やかに。あまりかまってほしそうではない銀さんたちの意を汲んで、部屋付きの仲居はそっと消えてくれた。

 ふぅとほのかに酒臭い息を吐き、銀さんはの肩にあごを乗せた。
 せっかくの部屋の広さもまったく無意味。ふたりはおまけにくっついた小さいほうの座敷からほとんど動こうとしなかった。そちらへ作られた掘り炬燵が、いたく銀さんのお気に召したらしい。しかも銀さんの広げた足の間には座らされ、こたつも一辺しか使われていない。
 なんとももったいないことに。

 温泉で芯まで温もったの体を、銀さんがぎゅうっと抱きしめる。磨きあげられたぷくっぷくの頬に後ろから気の済むまで頬ずりした。くすぐったいと笑いながら、も頬ずりして返す。銀さんの肌もつるんつるんで、それが無性におかしかったらしい。けらけらはしゃいだ声を上げた。

「湯冷めすんなよ。寒くねぇ?」
「あったかいよー?暑いくらい」
 一歩外へ出れば雪模様。そんな中は宿の浴衣を一枚きりしか身につけていない。だが、おこたで足下はぬっくぬくだし、こたつ布団も胸までかぶっている。
 それに背中からはすっぽりと銀さんが包んでくれていた。銀さんは浴衣の上にもう一枚、分厚い羽織を袖を通さずに届くように羽織っている。
「銀ちゃんは?それ寒くない?」
「ゆたんぽ」
 を抱く腕がぎゅっと締まった。そうして顔も寄せあえば、体温の逃げる場所もない暖かなかたまりのできあがり。
 銀さんというぬるま湯に肩まで浸かっているようで、はとろけてしまいそうだった。
「ふにゃー…」
 いや、とろけているかもしれない。すでに。


 へらへらとゆるんだ顔が戻らない。同じくらいにゆるんだ頭でが思うのは、ここへ至るまでの長い道のりだ。
 やれ町内会のくじに当たっただ、お登勢に紹介されただと、神楽や新八たちを連れては意外と身軽に出歩くくせに、相手がだと銀さんはとたんに遠出を渋る。
 何かと人に冷やかされるからそれが面倒くさいのか、あるいは「家でごろごろしていたい」という包み隠さぬ自分の希望をには遠慮なくぶつけられるのか。
 そんな銀さんを引っ張り出すためにがこのひと月どれだけがんばったか。それはもう、子供がサンタのお父さんにDSねだるのにも似たいじましさだった。

 たとえばテレビの温泉特集を、目をきらきらさせ見てみせたり。
 さりげなく銀さんの見ているところで、だんご屋へ来た客の話題を旅行の土産話に誘導したり。どちらの場合も決して「行きたい」「うらやましい」とは口にせず、黙ってよだれを垂らしているのがポイントだ。
 自分が頼んだ旅行券なのに、いかにも偶然回ってきたように装い、友人へ電話をかけてみせたり。「もしもし?誰かこの温泉行きたい人がいたらチケットあげるよ。ううん、わたしは行けないけど…」

 そして仕上げに、それらすべての策をかなぐり捨て、銀さんの前に涙の土下座。
「うわああああん!今までのぜんぶわざとなのー!だって銀ちゃんと旅行に行きたかったんだもん!」
 の企みなどおそらく銀さんはすべてお見通し。それすら計算に入れた離れ業だ。自分の見込みの正しさと、結局隠し事のしきれないに優越感を抱かせ、なおかつ、なりふり構わぬみじめな姿をさらすことで、さすがの銀さんにもを不憫に思わすところまでが策。
 …あれ。なんでここまでめんどくさいことしなきゃいけないんだろう?


 ぷにぷにと肉をつまむ銀さんを、うんとのけぞってが見上げた。
「ね?たまにはのんびり旅行もいいでしょ」
「そうかねぇ。うちに居るのと変わんなくね?」
 こたつに入ってふたりでごろごろ。
 そりゃそーだけど。
「えー?でもぉ、ごはんおいしかったでしょ?」
 メインは地鶏を使った鍋、無理に海のものを供さないのが好印象なごちそうだった。

 なのに銀さんたら面白くもなさそうにつぶやいた。
「あー…。おめーの作るメシとそう変わんねーよ」
「もう、銀ちゃんたら味オンチなんだから」
「………」
 残念。それが銀さんの精一杯だったのに気づかずあっさり流された。
「このバカ娘…」





 後から伸びた銀さんの手が、の目の前でみかんを剥いている。白い筋の一本一本まできれーに。
 ひと房をつるっつるに仕上げて銀さんが言った。
「ん。あーんしな」
「あーん」
 けれどみかんは狙いを外して、の鼻面にぷにっと押し付けられた。
「ぶぎゅ。違う、もっと下」
「下?こうか?」
 こんどは口を行き過ぎて、浴衣の襟から胸の谷間へ冷たいのがぽとりと落とされる。
「ひやっ!わざとでしょ!」
「二人羽織ならお約束だろ」
で遊ばないでっ」
「んーなこと言ったって」
 客室にはテレビも置かれていない。せめてこの宿に滞在中は俗世を忘れてくださいとの気遣いだが。
「銀さんで遊ぶしかねーじゃん」

 も負けじと、かごに用意されたみかんをひとつ取る。同じくきれーきれーにむいて、後ろも見ずに銀さんに食べさせた。
 こちらは見事、口の中へ。
「もが!まうごとがごもがもががが…」
 ただしまるごとだったけれども。



「しょーがねえ風呂でも行くか」
 言いながら銀さんの指はすでにの浴衣の帯をといている。
「また?」
「なんだよ」
「さっきも入ったとこなのに」
「いいんだよ。他にすることもねーんだし」
「そりゃーいいけど。銀ちゃんがそんなにお風呂好きとは知らなかった」
「ああん?銀さんは風呂好きですよぅ〜?自分で洗わなくていい風呂なら大好き!」
「どこの主婦だよ」








 重く作られた扉を押すと、外気がひやっとを突き刺した。シャーベット状になった雪を踏み、凍える寸前湯船へたどりつく。ぎゅっと目をつぶり、桶でかけ湯。一瞬温めなおされた体が再び冷えてしまう前に、あわてて湯の中へ飛び込んだ。
 冷気で強ばった体の表面を夢中でさすり、は息をついた。
「はぁぁぁぁぁ…」
 助かった。

 部屋にはそれぞれ内風呂と専用の露天風呂がある。檜を組んだ湯船にはたっぷりの湯が満たされて、の質量があふれた後も柔らかな湯がこぼれつづけている。
 あごの先まで湯につかると、こたつと銀さんでのぼせそうだった頭だけがすーっと冷やされていった。

 大きな湯船の真ん中には体を伸ばしてみた。雪の積もった庭木を眺め、それから高い垣根の上に広がる空へ視線を移した。
 今はまだ、季節のはじめで降りも穏やかなのだと言われた。粒の大きなぼた雪がぐるぐる、見ていると目が回りそうに落ちてくる。雪雲は低いところに立ちこめ、地上のわずかな明かりを映して夜空はぼんやりほの白い。

「うーっ!さぶさぶさぶ!なんじゃこらァァ!」
 前も隠さずぶらぶらと、風情もだいなしのけたたましさで銀さんが遅れてやってきた。
「あっ」
 いたずらっぽい目と目が合う。
 こっそり何をしているかと思えば、両手にお猪口とお銚子持参だ。
「待って待って銀ちゃん、それ持って転んだらやだよ」
 食事の時に酒を頼んだら、きれーな音の鳴る磁器で運ばれた。わずかな衝撃で壊れそうな、薄く繊細な器だ。そんなものを持ち込んでくるなんて。
 あぶなっかしいので湯船の中からがふたつの酒器を受け取った。

 ひょいと銀さんが湯船をまたいでくる。
「あー!かけ湯しなくちゃダメなのに」
「っせぇなー。いいんだよ。さっきも風呂入ってきれーにしてんだから」
 へりにもたれてふぃーとひと息。それからに手を出した。お猪口を渡しはしたものの、はイヤそーに眉をひそめている。
「やーね」
「雪見酒ってのもおつなもんだろ」
「もう…」
 怒った顔も、だがすぐほころび、苦笑まじりにはお酌をした。


 お猪口へ口のほうを寄せて、なみなみ注がれたその一杯を銀さんが吸いこむように干す。喉が小さくこくりと鳴ると、くぅぅ…と目を閉じた銀さんがうれしそうなうめき声を漏らした。染み渡る酒が目に見えるよーな。
 そしてにも飲めとご返杯。
「え〜?はいいよう。酔っぱらっちゃうもん」
「いいから。酔えっつってんの」
 うりうりとお猪口が口元へ突きつけられる。断わりきれずに舐めたら甘かった。




 引き締まった両腕両脚も、今だけはぬるめの湯の中でぐでーんとだらしなく伸びきっていた。それでもゆとりの広い湯船だ。伸ばした足も壁に届かない。
 にやけた顔がを手招き。はふわふわお湯をかき、言われた通り銀さんの膝の上へ横座りになった。それを待ちかねていたかのように、回された腕がの腰を抱き寄せる。
 片手にを抱っこして、反対の手にはお猪口を摘まみ、自堕落を絵に描いたような光景だ。

 すると銀さんは何を思ったか、くくくと喉の奥で笑い出した。
「雑誌の裏にさ、こんなんあるじゃん。こんな広告」
「札束のお風呂に女の子と入ってる…?開運グッズみたいなの?」
「そうそれ!おめーよくわかったな!つかそれがわかるってどんな本読んでんの!」
 酔っ払いはげらげら笑い出した。
「ダメだこいつダメだこの酔っぱらい…」
 そう言うの渋い顔も長くは続かずに、そのうち一緒に笑い出した。
 ほんのひとくちで酔ったのかもしれない。



 檜の縁に置いたお猪口に銀さんが片手でなみなみ手酌、の口元へまた持っていく。が少しだけ舐めた残りを銀さんはひと息にあおり、ぷはーっと派手な息をついた。
 舐めただけのも頬を火照らせ、隣で小さな吐息を漏らす。
 舞い落ちる雪はしんしんと変わりなく、手のひらに落ちた白い花びらはその瞬間にじわりと溶けた。

 銀さんの肌との素肌、湯の中でそれが触れ合う感触は「ぺったり」と少しだけねばっこい。

「あのねぇ」
「あん?」
「ひひひ」
「きもちわりぃ」
ねぇ」
「銀ちゃんだーいすき、だろ」


 お前のことなどお見通しだと、「ぺったり」にひっついて、銀さんが鼻高々にした。









リクエストありがとうございました!
びび様から「銀さんと温泉旅館で露天風呂で雪見酒!!で、炬燵でみかんを食べながらゴロゴロいちゃいちゃ!!」でした。
ひとあし早く冬景色でした。