分厚い雲が空一面を覆っていた。
 が、今日もかぶき町の大通りは雲より厚い人の波。さすがはお江戸いちばんの歓楽街だ。
 そして通りを一本入った商店街のおだんご屋も、このぐずついた空模様などものともせずににぎわっていた。雨でも雪でも通ってくれる常連さんがありがたい。
「ありがとうございましたぁ!またどうぞぉ!」
 看板娘の晴れやかな声が通りの先まで響きわたった。


 ひょんなことから店主のが記憶をなくしてはや数日。周囲の手厚いサポートもあって店はつつがなく営業中だ。頭が忘れてしまったことも体は覚えているのだろうか。仕入れや仕込みはなんなくこなすし、端々にのぞく細かな癖…たとえばお辞儀をする時にお盆を必ず抱きしめていたり…も、いつもしていたそのまんま。言われなければ「」ではないとは誰も疑いすらしないだろう。
 人気のアイドル映画で起こった集団ヒステリー事件はお江戸をかなり騒がせていて、客の飲み込みも早かった。

「あらま。ちゃんもあすこに居たのね」
「記憶ソーシツですって?なんてこと!」
「でも変ねえ。ウチの姪っ子もそれ見にいってたらしいけど、ちょっと頭痛がしたくらいであとはなんともなかったってよ?」
「いやァそれが。医者が言うにゃあアレは思い込みの激しい娘ほど症状が重てぇらしいんで」
「あ〜あ〜あ〜」
「どーいうイミだよその『あ〜あ〜』は!?つーかそれ捜査上の機密じゃねーの?茶飲み話に提供してくれてんじゃねーよ!守秘義務知ってる?沖田クン守秘義務!」


 10人ほどで満席になるこじんまりした店の中には、金棒引きのおばちゃんふたりと上客沖田総悟の姿。それから「自称用心棒」が出入り口そばに腰掛けている。
「お客様になんて口のききかた!」
「ハイっ!すいませんっっ!」
 こうして何かと叱られながら、銀時もほとんど朝から晩までここへ居着いて懲りないのだ。
「おーコワ。モノの言い方が母ちゃんそっくり」
「っ!」
「ひえっ!」
 しっかり聞こえていたにまたしてもぎりっと睨まれた。



 そんなふたりのやりとりは当然ながら常連客には物珍しくてしかたない。おばちゃん達は互いの肩をぱんぱん叩いて大ウケだった。
「あっははは!やだよぉ、ちゃんたらほんとに忘れちまってんだねえ!」
「ほんとほんと、なあに?今のアレ。おクマちゃんにも見せたかったわぁ!」
「っせーよババァ!食うモン食ったらさっさとけーれ!」

「ほんとになんにも覚えてないの?いつもお小遣いまであげてたじゃない。アタシらがいくら止めてもちゃんたら『銀ちゃん銀ちゃん』つってさァ」
「おっ、いいねいいね。それは言ってやって。こいつ本気で銀さん忘れちまっててぇ、ごらんのとおり怖ぇのなんのって」
「いやいやそれがふつうの反応ってモンでしょアンタ」
「んだとコラ」

 銀時も客に対してはへするほどしおらしくない。
 一方も彼女らが語る「いつもの」には不満そうだった。
「えぇぇ〜?わたしが〜?」
「奥サン方のおっしゃる通りでさ」
「いやですよもう。沖…総悟さんまで冗談ばっかり」
「あーらら残念沖田く〜ん。体は『沖田さん』で覚えてるみたいよ?」
 総悟の出ばなをくじくのが今の銀時の精一杯。くじかれる総悟でもなかったけれども。
「いやいや冗談じゃぁありやせん。アンタらここいらじゃ有名なバカ…仲良しカップルってヤツだったんで」
「今バカップルって言おうとした?言おうとしたよね張っ倒すぞクソガキ」

 いいかげん手が出そうになったがまたしてもにひと睨みされて銀時はたちまち小さくなった。
「…え、あ、いや、その、………スイマセン」


 気勢にびびりかけたおばちゃんも気を取り直してまた笑う。
 この坂田銀時という男、裏ではヤクザや吉原の人間とも付き合いがあるともっぱらの噂。いくら地元の人間とはいえ堅気のおばちゃんにしてみれば近寄り難い輩なのだが。
 それがこの看板娘の前ではひもつきわんこのようなのだ。
 ここでならどうイジるのも怖くない。

「そーだ!こういう時はだいたい王子様のキスで戻るんじゃないの?ほら、お兄ちゃんアンタやってみなさいな」
「仕方ねえ。一肌ぬぎやしょーか」
「すすめる相手がちげーだろババァ!」


 おばちゃんのボケを総悟が拾い、銀時がそれをツッコんで締める。気心知れたどうしならではのぬるく息の合ったキャッチボール。
 皆の笑いが引いたところでが幕を引くまでがお約束だ。
「はあい。そろそろ看板ですよう」
 総悟もおばちゃんも満足して、おのおの帰り支度をはじめた。









「…あ、うん。じゃあ俺も出かけっかな」
「?」
 ところがなぜか銀時までがそわそわ落ちつきなく立ち上がった。総悟がなんの気なしに向けた目へ、聞かれてもいない言い訳までして。
「ああ、いやなに。あ、甘いモンでも買いにいこうかと」
「甘いモンならそこに山ほどあるでしょうよ」
「うっ、うるせーな、いいんだよっ」

 後ろをが雨戸を抱えて、てきぱきと店をたたみだした。追い立てられるような形で総悟もろとも表へ出る。
「じゃーな、また明日」
「はあい、また明日お待ちしてますねー」
「お、おう、戸締まりちゃんとしろよ」

 わざわざ言われるまでもない。戸板は銀時の鼻先で手際よく枠にはめられていき、心地よく風の抜き抜けていた開放的な入り口が、見る影もなくなっていく。
 かんぬきのかかる音と同時に、頬へぽたりと水滴が落ちた。



 頬にまたひとつ、手へ、頭へ。しずくは次第に大きく冷たく、そのうち目でも追えるくらいにはっきりと雨が降り始める。
 目の前で、取りつくしまもなく閉じた壁。
 通りを急ぎはじめる人に怪しまれないぎりぎりまで、銀時はそこへ立ち尽くしていた。





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