薄く日暮れた灰色の景色に、点々と赤い誘導灯が点る。地上五十階、ターミナルも間近な一等地からの眺望だ。
リビングルームの大きな窓に張りついて、が子供じみた歓声をあげた。
「うっわぁぁ!たかーい!きれーい!地面見えなーい!人がゴミのよう!」
「どこの大佐?!」
景色を存分に堪能すると、は窓からぺりっとはがれ、今度は部屋の探検に取りかかった。リビングの壁に沿ってぐるりと渡された階段をとんとん音をたてて上る。メゾネットタイプの上階には大きなベッドの寝室と、洗面、トイレ、バスルーム。
バスルームもまた半面がぴかぴかのガラス窓になっていた。同じ高さに住む人はないから覗かれる心配は無用ということか。銀時が足を伸ばしてもおそらく向こうのへりに届かない、巨大な楕円の浴槽は24時間循環式。今もふちから湯気のたつお湯を惜しげもなくあふれさせている。
「いやぁぁぁ!夜景の見えるジャグジーだぁぁ!お風呂おっきぃー!なにこれー!えっちぃー!ラブホみたーい!」
「貧しい!発想が貧しいわァ!恥ずかしいからもうやめて銀さんが悪かったっ!」
なぜか銀時がいたたまれなくて思わず手が出た。ぱこーん!と。
「いでっ!」
今から一時間ほど前。
一週間の営業を終え、念入りに店じまいしていたの前に、ふらりと銀時が現れ言った。
「ちょっと遊び行かね?」
「うん!行く行くー!」
そんな簡単なやりとりの後に連れてこられたこの場所は、お江戸のどこからもよーく見えるターミナルを中心とした摩天楼の一角。超のつく高級タワーマンションだった。
「い、いいの?こんなとこ勝手に入ったら怒られるよ?」
「いいのいいの、ほら」
ロビーでは屈強な警備員がふたり、人の出入りを狛犬のように睨んでいたが、銀時がカードキーをちらつかせると揃って慇懃に頭をさげた。
「ねぇほんと?ほんとに今晩ここに泊まってもいいの?」
一発くらったくらいではの興奮は冷めやらない。あんぐり大きく口を開いて吹き抜けの玄関ホールを見上げ、ぴっかぴかに磨き上げられたフローリングにひざまづき。階段を下りて上がっては、あらゆる扉を開けまくり。RPGの勇者のように、戸棚を開けないだけマシか。
けれどもがはしゃげばはしゃぐほど銀時の気分は重たくなった。どうもこのままでは、本当にただきれーなお部屋に一泊して終わってしまいそう。仲良く布団にくるまって?手でもつないでぐっすりお休み?そんな不健全なことがあるか!?
よそに泊まったら「する」だろ、それがふつーだったろ?!いつからこんなことになってんの?
それなのに銀時の歯切れも悪い。天を仰いではすぐうな垂れて、あー、うー、と唸り、そして咳払い。ふたたび飛び出そうとするを呼び止めるのもやっとだった。
「なぁ」
「なあに?」
ほがらかに振り向いたの表情は威圧感すら漂う無邪気さだ。
怯む自分を奮い立たせて銀時はついに口火をきった。「あー、えーと。そんじゃあ、さっそくだけど…」
「一緒に、風呂でも入らね?」
がぎくりと身構えた。照れ笑いしてみせた顔がこころなし硬い。それで一連のはしゃぎっぷりが、やはり計算だったのだと知れた。
「…あ、あ〜、うん、あははは…」
逃げるように一歩後ずさった足を、銀時の目は見逃さなかった。
「あ、いや、別に、だからどうこうしたいとかじゃねーし!ほらほらこの風呂、広くてキモチよさそーじゃね?のんびり浸かってさ、そんで銀さんとお話しよ!ハダカとハダカのおつきあいしよ!な?いやいやいやそれだけそれだけ、別に、なんだ、そんな、アレだ…」
「…うん」
腹をくくった、とでもいいたい、神妙な顔ではうなずいた。
「そーいえば、一緒にお風呂もひさしぶりだもんね」
そうしてにっこり微笑まれると、今度は誘った当の銀時が気まずくなって目を逸らす。互いになんともぎこちない。
そーなのだ。
ここしばらくというものふたりは、こんな調子でやけに清らかな夜を過ごしていた。
それまでいつもしていたように、湯船の中で銀時はをひざの上に座らせた。背後から抱きすくめ、肩口にぽんとあごを乗せると思わずほうっとため息がもれる。パズルの隣り合った欠片のように、収まりが良くて落ち着くかたち。思えばこれも久しぶりだ。はというと、さっきまでのはしゃぎようが嘘のようにかしこまっていたが。
もとをただせば、この夏が来る少し前。はある揉め事に巻き込まれ、銀時の前から姿を消した。幸い無事に帰って来たし、最近になってようやく気持ちの整理もついた。
しかしいまだに身体の方はあまり触らせたがらない。
ぼんやりと暖かな明かりの下で、銀時はの肩に唇を這わせた。大きな百足でも貼りついたように、青黒く盛り上がった傷痕がそこにある。その揉め事の折に負わされた。
「痛そ。な、これ。痛かったろ」
はわずかに肩を竦めたが、強ばった身体はすぐにほぐれた。やがてふふっとこぼれた笑みも、ごくくつろいだ自然なものだ。
「覚えてないよ。てゆーか、よくわかんない。痛いって思う前に気絶しちゃったもん」
「あぁ、そーだっけ。そーいやそうか」
がぐるりと横を向き、反対に銀時を触りはじめる。
とは当然比較にならない、大小古傷だらけの身体。怪我なら今もちょくちょくするが、新しい傷は跡にならない。整形医療は進歩して、そこいらの町医者に適当に駆け込んでも文字通り跡形もなく治してくれる。の場合は手当てもされずに放置されたのが悪かったらしく、帰った時には残念ながら手の施しようがなくなっていたのだ。けれどもその傷のことをよほど気に病んでいるかというと、それはそうでもなさそうだった。
「ここと、ここ」
の指が銀時の胸の上で、いくつかの刀傷を順に指す。の怪我、銀ちゃんのこことよく似てる。一緒いっしょとうれしそうに笑った。
「だからね、無理して消さなくてもいいんだ。せっかく銀ちゃんとおそろいだもん」
「…よくわかんねーけど」
「いいの!ねぇ、銀ちゃんは痛かった?これ、刺された時のことおぼえてる?」
「さぁな〜。ケンカの時の怪我なんてなァこっちもテンション上がってっからいちいち痛いとか考えてねーよ」
「そーなんだ?じゃあそれもと一緒だねぇ」
と、意外にあっさりしたものだ。初めてその傷を見せられた時に、ショックで頭に血が上ったのもむしろ銀時の方だった。
「そーだ病院、今からでも…!あぁ、そーだよ、そうしよ?な!おめーの父ちゃん顔広いだろ?誰かいい医者知ってるって!そんくらいの傷つるっつるに治してもらえるって!」
とるものもとりあえず病院病院とうわごとのようにわめく銀時に、返ってきたのは思いもしない答えだった。声はか細く弱々しいが抗いがたい重みがあって、おかげで我に返らされた。
「病院いくなら、ちがうとこ調べて」
「へ…?」
「お願い。調べて」
それまでは。それからもずっとつい最近まで。紗をかけたように色褪せていたの眼が、その瞬間だけ強く光った。
「、ずーっと男の人と一緒にいたけど、本当になんにもなかったから」
必死の訴えが痛々しくて、なにも返せる言葉がない。せめてぎゅうっと抱きしめてやるしか。
「…バーカ、んなことわかってんだよ」
疑う必要もないことを銀時は知っている。
なぜならと一緒に居たのは、銀時の古い友人の一人。その男の身体は戦の時に。
本当なら、帰ったその日から毎日だってを愛してやりたかった。今でこそすっかり落ち着いたけれど、しばらくの間はなにかと考え過ぎて身動きできないようだったし、それならぐだぐだ話をするより肌を合わせてしまったほうが、手っ取り早いと思ったのだ。ケダモノだって?それは違う。セックスの効能は快感だけじゃない。あれだけ恥ずかしい姿をさらせば、少なくともその相手にだけは何も飾ることができなくなる。
しかしを抱こうと手をのばすたびにあの時の顔がちらついて萎えた。一生懸命すがりつく瞳。「ほんとだよ?なんにもなかったよ?それ、しらべたらわかるよねぇ?病院で調べたら、ちゃんと証明してもらえるよね?」
それをもしも無理に抱いてしまえば、は自分が疑われてると誤解してしまうんじゃないだろうか?一刻も早く銀時が自分の色に染め戻そうとしている、そんな風に思わせては可哀想だ。
かといって、いつまでも手をつけずにいるのは、それもやはりを疑って、遠ざけていると誤解されるかも。
抱けば傷つけそうで怖いし、抱かずにいるのもまた傷つけそう、柄にもなく銀時は怯えていた。手に取るようにお見通しだったはずのの気持ちに自信が持てない。それというのもヤってないからで、ヤれないのは気持ちが読めないからであぁぁぁぁもう!
その結果がこれ。にも自分にもこれはよくないと、今夜これから銀時はちょっとした荒療治を試みる所存だ。
大丈夫、ほんのきっかけさえあれば。そのために、こうして誰の邪魔も入らない場所を、わざわざ用意させたのだ。そもそもの元凶のお坊ちゃんに。
「やーだあ、さっきから手がやらしーよう」
ころころ笑っては身をよじった。銀時の手は湯船の中でいつの間にかの内腿を撫でている。ひざをスタートしてゆっくりと、だんだん上へ、もの言いたげに。何度も何度も往復した。
空いた手でを引き寄せる。浴室の湿気に濡れた唇をなぞるように舐め、それから重ねた。まずは控えめに舌を差し入れるとからも舌をからませ応えた。ためらってはいても嫌がってはいない。そのことにほっと胸をなでおろす。ほーら、考えるより産むが安しだよ。
「んん…っ」
息をするのに顔を反らされた。だが唇は離れてもそれ以上には逃がさない。両手でしっかり頭を抱え、その次は頬に口づける。それから閉じたまぶたにも。やり方を思い出すように。
前髪をかきあげ、額にも何度かキスを落とすと場所を変え首にかみついた。
「ひぁっ」
思わず身を引くを引き戻す。のけぞる白い喉にふるいつき、きつく吸いついて跡を残した。ぽっと小さく咲いた花びらにちろりと舌先を這わせた。いやいやと左右に頭を振って、が抗議の声をあげた。
「や…っ、もぉ、銀ちゃんはぁ…っ!」
声は甘えている。嫌がってはない。胸板にぺたんと顔を埋め、ぐりぐり鼻面をこすりつけた。人見知りの子供がはにかむように。
その背に銀時が手を回した。後ろ髪を撫でられが顔を上げる。上を向けと言われたのがなぜかわかったのだ。
そして流れのまま唇を合わせた。
浴室にはしばらくの間、ざばざばと水音だけが響いていた。湯船からお湯のあふれ続ける音。
銀時の肩に頭を預け、ははふっと熱い息をついた。そして小さく、つぶやくように、ふっくら艶やかな唇を開いた。
「もう、こーいうことしなくても、と銀ちゃんはいちばんの仲良しなんだしいいかなーって。そんなふうに思ったりもしたんだぁ…」
「そ?もうしたくねぇ?イヤ?」
は黙って首を横に振った。ぐにぐにと遠慮なしに乳房を揉みしだかれても、されるがまま、ただ恥ずかしそうに目を伏せた。吸いつく肌に指の食い込む感触が銀時を無我夢中にさせる。突きたて、ゆるめる、わしづかみにした指先が動くのをやめない。
「銀さんは、まだまだ、し足りねぇ。おめーはもういいの?もう銀さんにゃ飽きちまった?」
ちゅっと唇をついばむと、がくるくると首を震わせた。
顎の先もかぷり。切り揃えた髪がさらさら揺れた。
湯に浸からない胸から上も、抱き合うとべったり汗に濡れていた。ぴたりと重なりあった胸からどきどきと脈打つ鼓動が伝わる。
抱きしめる腕に力をこめて、言葉でなしに気持ちを伝える。
もぎゅうっと抱きしめ返し、こくん、とちいさくうなずいた。
言葉でなしに答えが返る。
やっと、だ。
「…あ、でもっ、ここじゃヤだよ?ちゃんとベッドの…」
皆まで言わせないうちに銀時はを抱き上げた。ざばーっ!と盛大に水を撒き散らし、そのまま体も拭わずに床を水浸しに寝室へ走る。
「きゃっ!ば、ばかっ!なに…」
「誰かさんの気が変わらねーうちにっ!」
隣り合ったドアを蹴り開けて、ベッドにを放り投げた。大きく跳ねた身体の上に倒れて覆いかぶさった。
キスの前にもういちど見つめあい、くくっとふたり同時に笑う。
考えすぎて動けないのは同じ、互いに自嘲を含ませて。
いつしかの身体からは、それまでの硬さが消えていた。
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