その「たとえ」は正直、適切ではない。
 だが他に伝わる言葉をもたない。

 たとえば洗い物の最中に愛用の茶碗を割ってしまったら。誰もが考えないだろうか。直前の自分を顧みて「もしもあの時こうしていれば」
 テレビなんか見ていなければ。もっと注意深く作業していれば。そもそも親切心など出して洗い物さえしていなければ。
 そうすればあの手に馴染んだ器を失うこともなかったのに、と。
 時間を戻すことができたなら、なんて言うも詮無いことの代表だ。それでもついつい頭をよぎるはず。全く無いとは言わせない。
 現在坂田銀時は、まさしくそんな状況にあった。

 さかのぼること1日前。友達と出かけようとするをなんとしてでも止めていれば。
 そうでなければ半日前。ことの始めから立ち会っていれば。
 それが無理なら2時間前。置いていかれた腹いせに昼から酒など飲んでいなければ。

 それも無理ならせめてせめてほんの30分前…
(あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!俺のバカァァァァァァァァァァァ!!)

 神楽と新八、そして沖田総悟の冷たい視線を浴びながら、銀時はもう何度目のことか、頭を抱え転げ回った。









 のどかな日暮れを迎えるかぶき町。開け放たれた窓からは遊び人達のさんざめく声が遠く風に乗り運ばれてくる。しかしこの「万事屋銀ちゃん」事務所は重い空気に包まれていた。
 和室の襖は堅く閉ざされ、銀時を断固拒絶している。そそりたつ氷壁のように。
 が立てこもったきり出てこないのだ。

「ったく旦那も面倒なコトしてくれましたねェ」
 ちょうど総悟の席からは、銀時の悪あがきがよく見えた。転げた次は飛び起きて、がちがちに正座してみせる。ふすまの向こうへかける声といい、哀れっぽさが演出臭い。
「なぁちゃーん?わかんだろ?銀さんですよ〜?嘘だよな?おめーが銀さん忘れちまったなんて。世界が金色になっちまってもおめーだけは覚えてくれてたもんなァ?」
「無理ですよ。ホントに覚えちゃいねーんで」
「沖田くんはちょっと黙っててくれるっ!?」
 振り向いた顔はしかしもう涙目。襖へすがりついた腕はずるずると力なく落ちる。そのままがくりと銀時は床へ泣き崩れてしまった。
「あんなトコ…やっぱり行かせんじゃなかった…」
 銀さんという彼氏がありながら、アイドルのライブ映画になんて。



「これですね」
 ここ数ヶ月分の新聞や雑誌。新八が机へ広げた資料を残るふたりが覗きこんだ。
 映画「キングオブクリスタル」通称「キンクリ」は、お江戸で只今ロングラン中の人気作だ。CGアニメにもかかわらず登場人物は生命感にあふれ、歌い踊る華麗な少年達に心奪われるファンが急増中という。

 しかしこの作品、外資系のプロダクションによる制作で、実は配給されたフィルムには特殊な信号が仕込まれていた。お江戸で「外資系」といえばもちろん他星系を指す。
 その信号は視覚情報と大音響により脳へ直接快感を与える…映像麻薬とも言えるもの。ただし人体へ及ぼす作用は巧妙に調整されていて、本来ならば映画が終わればあとかたもなく効果は消える、ごくたわいのないものだった。
 実際これまで大きな問題もなく、何度も見に行くリピーターがせいぜいワイドショーのネタになったくらい。あちらの星ではプロモーションとしてごくありふれた手法らしい。

 ところが場末のとある劇場がこの大人気に食いついた。シネコンに押され廃業寸前だったところへ、生き残りを賭けた博打に出たのだ。
 「本物のライブ同様に声援を送れる鑑賞会」
 コスプレOK鳴り物OK。うちわもライトもどうぞ全力でお振りください。という、題して「応援上映大会」だ。
 お祭好きのお江戸娘がこれを見逃すはずがない。イベントはおおいに盛り上がり、
 …結果映画の製作陣が思いもしないことになった。
 クスリが効き過ぎてしまったわけだ。

 有り金はたいて導入された音響機器がトドメだったのか。劇場は阿鼻叫喚の渦と化した。興奮のあまり漏らす者、壁へ頭を打ちつける者、ご贔屓アイドルの違いからつかみ合いのケンカを始める者まで。
 さらには失神者も続出。運びこまれた病院からの通報で事件が明るみに出た。

 よせばいいのにそのイベントへものこのこ参加していたとは。
 他の観客と同様に病院で目を覚ました時には、自分に関する全ての記憶を失ってしまっていたのだった。
 『ここはどこ?わたしはだあれ?お侍様あなたはどなた?』


「いや〜驚きましたぜ。現場ァ行ったらえらく見知った顔があったもんで」
「あっそ…」
「ウチの女中も巻き添えくっちまいましてね」
「えっ?マジで!?」 
 鼻先に吊られたそれはまさに蜘蛛の糸。一縷の望みに銀時が身を乗り出した。
「そ、そそそそっちはどうなってんの?!やっぱこんなカンジ?!さわるモノみな傷つけるガラスの十代みたくなってる?!」
 同じ症状の患者同士、もしや助けになる情報があれば。そうでなくともこの不安を共有できれば心強い。
 しかし現実は無情だった。
「彼氏がつきっきりで看病してまさ。女のほうもまんざらじゃあねぇようで。いざとなったらオトモダチからまた始めてもいい、だそーですぜ。まああっちは心配いりませんや」
「使えねえぇぇぇ!クソの参考にもならねえ!」

 いっぽうこちらは…と振り向けば、なんと襖にわずかな隙間が。しかし喜びもほんのつかのま。細く細ーく開いた向こうには獰猛な牙が覗いていた。
「がるるるる…」
さんんんんん?!」
「あーあ。すっかり嫌われちまいましたねェ」


 無理もない。
 誰ともわからぬ警官に見知らぬ家へ連れてこられ、いくら神楽と新八が親身に気遣ってくれたとしても、の不安はどれほどだったか。
 そこへ帰ってきたこの男ときたら。

 『うぇ〜い銀さん帰ったよーっと。おろっ?不良娘がいるじゃねーの』
 靴を脱ぎ散らかし上がりこみ…と、これは自分の家だから仕方ない。
 だがそのあと。
 よたよたの足で一目散にをめがけて近づくと、神楽、新八、総悟の3人へまるで見せつけるかのよーに、力いっぱいふりかぶり、の頭をはたいたのだ。
 すぱぁぁぁぁんっ!!
 『?!???!?!』
 『ぎ、銀さんっ?!』
 『ダンナ?!』
 『うひひひははははははは!なーにおめーら豆鉄砲くらったよーな顔してんの!いいんだよコイツはこれでいーの!なっ?』
 返すその手でまた叩いた。ばしっ!
 『おらっ!反省したか不良娘!銀さんおいてふらふら遊びまわりやがってコラ』
 『なっ?や、やめ…、ちょっ…やめてくださ…』
 『ほ〜れオシオキだべえ〜』
 『ちょ、おさけくさ…、なんでこんな…きゃああっ?!』
 おかっぱ頭をわしづかみ、激しく揺さぶり回したあげく、背後からぎゅううっと抱きすくめる。脂の浮いたほっぺたでに頬ずりしてやった。
 つとめて客観的に述べれば、それが酒臭いオッサンの、いたいけな少女に行った仕打ちだ。


 今なら銀時にもわかる。
 こちらは軽くじゃれたつもりでもそのときのにしてみれば、いきなり襲われたも同然。自分よりうんと大きな体に羽交い締めされた恐怖たるや。酔った勢いで力の加減もしてやれていたか定かでないから、このまま絞め殺されてしまうとが思っても不思議はない。
 『ひっひひひ!』
 しまいに股間をへ押しつけ、へこへこ腰を使う真似までした。
(あああ俺のバカ!ホントバカぁぁぁぁぁああああ!)

 『やめてくださいっ!!』
 『…へっ?』
 あらがう声が思いのほか鋭く刺々しいことに、気づいた時には手遅れだった…。










 なんの進展もないままに小一時間は経っただろうか。やがて神楽が遠慮がちに襖の前で訴えた。
〜。もう出ておいでヨ。この男も反省してるアル。もう噛み付かないヨ」
「噛み付かれてんのは銀さんだけどな」
「黙れヨ天パ。大丈夫、もうあんなイタズラ絶対させないアル」
「………」

 話はずっと聞こえているはず。決して広がることはなく、しかし狭まることもなく、小指の太さくらいの隙間が襖には依然開いている。
 両手を後ろに組んだ格好で厳正なる審査を待つ神楽。さらなる沈黙を数分はさみ、天岩戸はついに開いた。
…!!」

 こんな時だがそれでも銀時はほっとひといき胸をなでおろした。彼女の元気そうな顔を見て。
 映画へ行くと家を出た時の、ちょっと気張ったよそいき姿。ちょうちょを描いた春の装いも、つやつや毛並みのおかっぱ頭も、輝く瞳も、変わっていない。よかった。


「ごめんね。…えっと、神楽ちゃん、新八くん、沖田…さん?」
「総悟で結構でさ」
「総悟さん」
 ぐしゃんっ!
 真選組の隊長が頭から机へ突っ伏した。

 しかし総悟の奇行へはきょとんと愛らしくしてみせたが、次に銀時へくれたまなざしは。
 おそろしく冷ややか。
 ちびりそう。
 しかも視線はほんの一瞬。それきり二度とは銀時を視界へ入れようともしなかった。和室を一歩出てはきたものの、銀時をあからさまに避け、大回り。神楽の招いた席へ腰掛ける。神楽も空気の読める子なので案内したのは最も遠い椅子。を座らせると自分と新八、総悟で幾重にも防壁を作った。

「具合はどんなもんで?」
「はい、おかげさまで。体のほうはなにも」
「よかったヨー!バカバカ、もー心配したアル!」
「ごめんね神楽ちゃん。ほんとごめん」
「このあとどうします?さん。明日からお店は…」
「うん、がんばって開けてみようと思って。お医者さんもなるべく普通にしてなさいって」
「手伝うヨ!」
「ぎ、銀さんも手伝うヨ☆」
「ありがとう、たよりにしてるね神楽ちゃん」
「キャッホォ!看板娘神楽ちゃんアル!」
「僕にもなにかお手伝いさせてください」
「ありがとう〜!みんなのこと早く思いだせるようにがんばるから!」

 銀時も勇気を振りしぼり会話へ飛び込んでみたのだが、完璧な形でスルーされた。はともかくほかの連中にまで。

「くれぐれも無理はすんじゃねーぜ。どーせいつもの天人のお騒がせでぇ。普段通りにしてるうちにけろっと治るに決まってら」
「ありがとうございます。沖…総悟さん」
「よせやい、そんな他人行儀なマネ」
「他人だよね!キミタチ他人以外の何者でもないよねっ!」
「用心棒は俺にまかせな。タチの悪い客は叩っ斬ってやる」
「総悟くん…」
「ストォォォォォォォっぷ!」

 そっと重ねられ…かけた手と手を銀時の手刀が叩っ斬った。
「違う!それおめーのセリフ違う沖田くんっ!だいたい!おめーも何イイ雰囲気かもしだしてんのっ?!いつもみたいに手のひらの上でちょろっとたぶらかしてやんな!!いつもみたいにほらっ!」
「………」
 決死のツッコミで少しでも流れを取り戻そうとするが、はうるさそうにひと睨み。黙って立つと高くなった視線が銀時を厳しく見下ろした。

 笑みが消えるとの表情は年よりいくつも大人びて、低く抑えた声とあわさりそれこそ知らない娘のようだ。
「…どこまで汚いの。わたしが総悟くんにそんなひどいことするわけないでしょう」
「そーだそーだ、逆恨みしてテキトーなこと言ってんじゃねーぞダンナぁ」
「調子に乗ってんじゃねーぞこらクソガキ!ヒトはてめーの信じたいものを信じるってアレホントだなっっっ!」

 うわずる声が自分でもわかる。もう誰もこの道化を顧みない。
「帰ります。明日の支度がありますから」
「あっ!私も行く!どこに何があるか教えてやるヨ」
「道中物騒だ。送っていきまさ」
 ふいときびすを返したに総悟も神楽も付いていってしまう。
 なおも追いすがろうという気力はもはや残っていなかった。








 睦まじい声が遠ざかると、代わっての残した視線で弱った心はいっぱいになった。繊細きわまる銀時のハートが責め苛まれ悲鳴をあげる。
 いつもとは違い「愛」のカケラもない、心底見下げ果てた嫌悪の目。誰にもひとしく優しいが、他へは決して向けることのない。
 それをよりによって自分にだけ、は容赦なく浴びせていったのだ。
 思い返すとまた震える。震えは骨の髄を走りぬけ、青ざめた肌を粟立たせた。
 やがてふつふつと腹の底から湧き上がってきた感覚は。


「あの…大丈夫ですか銀さん…?あんまり気を落とさないで。さんもすぐに思い出してくれますよ。それまでちょっとのがまん…」
 ただひとり残った新八が、口にしかけた慰めの途中でメガネをくもらせた。
「銀さん…?」
 見れば男の目は生々しく光り、不穏な笑みさえ浮かんでいる。


 今にも宙にかき消えそうな、細く小さく漏れた声を、その時確かに新八は聞いた。
「やべぇ。勃つ」
「オイ」





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