その「たとえ」は正直、適切ではない。
だが他に伝わる言葉をもたない。
たとえば洗い物の最中に愛用の茶碗を割ってしまったら。誰もが考えないだろうか。直前の自分を顧みて「もしもあの時こうしていれば」
テレビなんか見ていなければ。もっと注意深く作業していれば。そもそも親切心など出して洗い物さえしていなければ。
そうすればあの手に馴染んだ器を失うこともなかったのに、と。
時間を戻すことができたなら、なんて言うも詮無いことの代表だ。それでもついつい頭をよぎるはず。全く無いとは言わせない。
現在坂田銀時は、まさしくそんな状況にあった。
さかのぼること1日前。友達と出かけようとするをなんとしてでも止めていれば。
そうでなければ半日前。ことの始めから立ち会っていれば。
それが無理なら2時間前。置いていかれた腹いせに昼から酒など飲んでいなければ。
それも無理ならせめてせめてほんの30分前…
(あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!俺のバカァァァァァァァァァァァ!!)
神楽と新八、そして沖田総悟の冷たい視線を浴びながら、銀時はもう何度目のことか、頭を抱え転げ回った。
なんの進展もないままに小一時間は経っただろうか。やがて神楽が遠慮がちに襖の前で訴えた。
「〜。もう出ておいでヨ。この男も反省してるアル。もう噛み付かないヨ」
「噛み付かれてんのは銀さんだけどな」
「黙れヨ天パ。大丈夫、もうあんなイタズラ絶対させないアル」
「………」
話はずっと聞こえているはず。決して広がることはなく、しかし狭まることもなく、小指の太さくらいの隙間が襖には依然開いている。
両手を後ろに組んだ格好で厳正なる審査を待つ神楽。さらなる沈黙を数分はさみ、天岩戸はついに開いた。
「…!!」
こんな時だがそれでも銀時はほっとひといき胸をなでおろした。彼女の元気そうな顔を見て。
映画へ行くと家を出た時の、ちょっと気張ったよそいき姿。ちょうちょを描いた春の装いも、つやつや毛並みのおかっぱ頭も、輝く瞳も、変わっていない。よかった。
「ごめんね。…えっと、神楽ちゃん、新八くん、沖田…さん?」
「総悟で結構でさ」
「総悟さん」
ぐしゃんっ!
真選組の隊長が頭から机へ突っ伏した。
しかし総悟の奇行へはきょとんと愛らしくしてみせたが、次に銀時へくれたまなざしは。
おそろしく冷ややか。
ちびりそう。
しかも視線はほんの一瞬。それきり二度とは銀時を視界へ入れようともしなかった。和室を一歩出てはきたものの、銀時をあからさまに避け、大回り。神楽の招いた席へ腰掛ける。神楽も空気の読める子なので案内したのは最も遠い椅子。を座らせると自分と新八、総悟で幾重にも防壁を作った。
「具合はどんなもんで?」
「はい、おかげさまで。体のほうはなにも」
「よかったヨー!バカバカ、もー心配したアル!」
「ごめんね神楽ちゃん。ほんとごめん」
「このあとどうします?さん。明日からお店は…」
「うん、がんばって開けてみようと思って。お医者さんもなるべく普通にしてなさいって」
「手伝うヨ!」
「ぎ、銀さんも手伝うヨ☆」
「ありがとう、たよりにしてるね神楽ちゃん」
「キャッホォ!看板娘神楽ちゃんアル!」
「僕にもなにかお手伝いさせてください」
「ありがとう〜!みんなのこと早く思いだせるようにがんばるから!」
銀時も勇気を振りしぼり会話へ飛び込んでみたのだが、完璧な形でスルーされた。はともかくほかの連中にまで。
「くれぐれも無理はすんじゃねーぜ。どーせいつもの天人のお騒がせでぇ。普段通りにしてるうちにけろっと治るに決まってら」
「ありがとうございます。沖…総悟さん」
「よせやい、そんな他人行儀なマネ」
「他人だよね!キミタチ他人以外の何者でもないよねっ!」
「用心棒は俺にまかせな。タチの悪い客は叩っ斬ってやる」
「総悟くん…」
「ストォォォォォォォっぷ!」
そっと重ねられ…かけた手と手を銀時の手刀が叩っ斬った。
「違う!それおめーのセリフ違う沖田くんっ!だいたい!おめーも何イイ雰囲気かもしだしてんのっ?!いつもみたいに手のひらの上でちょろっとたぶらかしてやんな!!いつもみたいにほらっ!」
「………」
決死のツッコミで少しでも流れを取り戻そうとするが、はうるさそうにひと睨み。黙って立つと高くなった視線が銀時を厳しく見下ろした。
笑みが消えるとの表情は年よりいくつも大人びて、低く抑えた声とあわさりそれこそ知らない娘のようだ。
「…どこまで汚いの。わたしが総悟くんにそんなひどいことするわけないでしょう」
「そーだそーだ、逆恨みしてテキトーなこと言ってんじゃねーぞダンナぁ」
「調子に乗ってんじゃねーぞこらクソガキ!ヒトはてめーの信じたいものを信じるってアレホントだなっっっ!」
うわずる声が自分でもわかる。もう誰もこの道化を顧みない。
「帰ります。明日の支度がありますから」
「あっ!私も行く!どこに何があるか教えてやるヨ」
「道中物騒だ。送っていきまさ」
ふいときびすを返したに総悟も神楽も付いていってしまう。
なおも追いすがろうという気力はもはや残っていなかった。
睦まじい声が遠ざかると、代わっての残した視線で弱った心はいっぱいになった。繊細きわまる銀時のハートが責め苛まれ悲鳴をあげる。
いつもとは違い「愛」のカケラもない、心底見下げ果てた嫌悪の目。誰にもひとしく優しいが、他へは決して向けることのない。
それをよりによって自分にだけ、は容赦なく浴びせていったのだ。
思い返すとまた震える。震えは骨の髄を走りぬけ、青ざめた肌を粟立たせた。
やがてふつふつと腹の底から湧き上がってきた感覚は。
「あの…大丈夫ですか銀さん…?あんまり気を落とさないで。さんもすぐに思い出してくれますよ。それまでちょっとのがまん…」
ただひとり残った新八が、口にしかけた慰めの途中でメガネをくもらせた。
「銀さん…?」
見れば男の目は生々しく光り、不穏な笑みさえ浮かんでいる。
今にも宙にかき消えそうな、細く小さく漏れた声を、その時確かに新八は聞いた。
「やべぇ。勃つ」
「オイ」
>>>>>>>